【5分でわかる】アメリカってどんな国?

こんばんは!政治提案家タカジュンです!

今回もG7特集、第5弾!

アメリカをお届けいたします。

 

1,アメリカの成り立ち

 

古代から先住民が住んでいたアメリカですが、世界史に登場するのは中世15世紀を待たなければなりません。

 

当時アメリカは、「コロンブスによって発見された大西洋の向こうの大陸」にすぎず、やがて本国(イギリス)の労働力や資源の搾取の対象となりました。

 

そんな植民地アメリカが世界のリーダーに登りつめるきっかけとなった出来事は、1620年のピルグリム=ファーザーズの移住です。

イギリスから居場所がなくなった清教徒たちがイギリスを飛び出し、船でアメリカへわたった出来事です。

 

それから徐々にイギリスとフランスによる領土拡大のための植民地戦争に巻き込まれ、先住のインディアンたちは住んでいた土地を奪われました。

 

18世紀、アメリカの植民地は、イギリスの支配下にありながらも独自で発展し、自ら自治も行なっていました。

 

アメリカにおけるイギリスからの独立感情を高めたのは、ボストン茶会事件でした。

アメリカの住民は本国イギリスに様々な規制を強いられ、関税をかけるなどして苦しめられていました。

耐えかねたボストンの住民たちは、入港しようとする船を襲い、中に入っている大量の茶葉を海に捨てた、という事件です。

 

報復措置をとったイギリスに対し、アメリカはイギリス製品をボイコットするなど、本国と植民地の溝は修復不可能な状態となりました。

 

1775年、ついに全面戦争となり、1776年7月4日に植民地軍はアメリカ合衆国独立宣言を採択。その後アメリカは戦争に勝利し、イギリスも独立を認めました。

独立後、アメリカは工業製品が盛んな北部と、奴隷を酷使して広大な土地でプランテーション農業を行う南部で利害が衝突していました。

 

これが原因となって、1861年、アメリカ史上唯一の内戦となった南北戦争が勃発。

この内戦を終結させ民主主義のアメリカを守ったのが、エイブラハム=リンカーン大統領でした。

リンカーンの白黒写真

画像:エイブラハム=リンカーン(pixabayより引用)

 

その後、アメリカは領土を西へ西へと広げ、ついに太平洋までたどり着きました。

すると今度は、ハワイフィリピンなどの太平洋へ本格的に進出して領土を拡大しました。

 

第一次世界大戦では、当初イギリスのサポートをするにとどまっていましたが、自国の船がドイツに攻撃されたことを受け、参戦します。

 

1920年代、アメリカで様々な科学技術が発展すると、戦争で経済が混乱していたヨーロッパ諸国を追い抜き世界一の経済力を誇る国へと成長しました。

 

世界恐慌も公共事業の展開やブロック経済の形成で乗り越え、日本との太平洋戦争を迎えるとともに社会主義を唱えるソ連と対立し、冷戦へと突入してゆきます。

 

冷戦期のアメリカは、資本主義圏(西側)のリーダーとして、ソ連との核開発競争をはじめ、事実上、アメリカにつくかソ連につくかの世界中を巻き込んだ国取り合戦を展開しました。

政治のみにとどまらず、音楽、芸能、スポーツなど多岐にわたる分野で冷戦は影響を及ぼします。

 

1989年の米ソ首脳会談で冷戦が終結。

その後も、世界のリーダーとして世界中の諸問題に取り組んでいます。

 

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2,アメリカって!?文化・風習

 

・正式名称 アメリカ合衆国

・首都 ワシントンD.C

・大統領 ドナルド=トランプ

・面積 9,630,000㎢ (世界第3位)(日本の約25倍)

・人口 3.2億人

・公用語 英語

・宗教 プロテスタント(50%)、カトリック(25%)

・世界第1位 GDP、五輪総獲得メダル数、ノーベル賞受賞者、軍事費、原発稼働数 など

(Wikipediaより引用)

 

アメリカ合衆国が、建国250年ながらも超大国としての地位を得ることができたのには当然、いくつもの理由があります。

 

まず、その国土の広さです。

1800年代後半、南北戦争から立ち直ったアメリカは、国の領土を西に広げ、鉄道や道路の建設などを進めて経済を大きくしていきました。

 

また、1930年代前半の世界恐慌の際には、公共事業を起こして雇用を確保することで経済の低迷から脱却しました。

どちらも、広大な面積を持ってこそできることでもあります。

 

次に、「アメリカ」の理念があげられるでしょう。

もともとアメリカ合衆国とは、イギリスからの移民が創った国です。

 

建国後も世界中から移民が移り住み、現在では世界を代表する多民族国家です。

その内訳は、黒人(60%)、ヒスパニック(15%)、黒人(12%)、アジア系住民(5%)となっています。

 

そのためアメリカは、様々な国、宗教の文化や考え方を柔軟に取り入れてきました。

その多様性、順応性、寛容さも今のアメリカを創ったゆえんと言えるでしょう。

 

現在のアメリカは、ニューヨークサンフランシスコシアトルなど大都市には世界中の企業が進出し、言わずと知れた世界の中心となっています。

 

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3,アメリカの政治

 

最後はアメリカの政治体制を紹介します。

アメリカは上院下院の二院制を採用しています。

 

上院は任期6年で3分の1ずつ2年ごとに改選、下院は任期2年で、どちらも解散はありません。

 

日本の場合は、与党の党首が首相となります。安倍晋三氏は第1党、自由民主党の党首です。

 

ところがアメリカは、全く異なります。

 

アメリカにとって大統領は国家元首であり、それを選ぶ選挙は、いわば、お祭りのようなものです。候補者選びは2年前から始まります。

 

議会選挙とは別に大統領選挙が行われます。国会議員が大統領になるとは限らないのです。

バラク=オバマ前大統領は上院議員でしたが、現職の大統領は実業家のドナルド=トランプ大統領です。

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選挙前、多くの世論調査ではヒラリー=クリントン氏が優勢とみられていましたが、見事に覆し、勝利を収めました。

世界の警察をやめ、自国第一で物事を考えるトランプ氏の政策は、排他的であり世界の均衡を壊しかねない、と批判が相次ぎました。

 

一方で、わかりやすい言葉で伝える姿勢や、政策、思想のシンプルさなどが一部の人々を引きつけました。

メキシコとの国境に壁を作る、イスラム教徒の入国を禁止する、外国の製品に高関税をかけアメリカの産業を守る、など、アメリカファーストの政策が国民の心に響いたのは事実でしょう。

 

「トランプ大統領の就任で世界が壊れる」とも言われましたが、それから2年。

賛否両論がありながらも、経済面においては公約通り自国を最優先してきました。

 

日米首脳会談やG7G20など、様々な国際会議でトランプ氏の言葉が世界を動かしています。

【核保有国まとめ】核兵器ってどこの国が持ってるの?

こんにちは、タカジュンです!

 

先日、北朝鮮がミサイルを発射したニュースやその意図について紹介しました。

 

核兵器に代表されるミサイルですが、人命や町、国家までもを危険にさらすこの兵器が世界中の脅威になっていることはもちろん言うまでもありません。

 

一方で、皮肉なことに、核兵器の存在が今の世界の均衡を保っているのもまた、事実なのです。

 

ここで突然ですが、問題です。笑

 

現在、核兵器保有国は何カ国でしょうか。

 

こで今回は、第二次世界大戦からどのようにして現在の世界がつくられたのかを「核兵器」の観点から、

 

また、核保有国について簡単に解説していきたいと思います。

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核保有国

2019年現在(8カ国)

核兵器保有国(核拡散防止条約で、核兵器保有が認められた国)

・アメリカ合衆国

・ロシア連邦(旧ソビエト連邦)

・イギリス

・フランス

・中国

核兵器保有国(核拡散防止条約では認められていないが、保有している国)

・インド

・パキスタン

・北朝鮮

核兵器保有が疑われている国

・イスラエル

・イラン

・シリア

(・サウジアラビア)

(・ミャンマー)


核兵器の歴史とNPT

 

「原子爆弾」と聞くと、広島、長崎を連想する人が多いでしょう。

 

原爆は第二次世界大戦中にアメリカが世界で初めて開発に成功し、日本に投下しました。(ご承知の通り、日本は世界で唯一の被爆国です)

 

この出来事は、核兵器の威力を世界中に示すとともに、「俺の国を怒らせるとこうなるぞ。」という自国のアピールにもなりました。

 

戦後、東西冷戦に入るとまず、ソ連(現在のロシア)がアメリカに対抗するために核兵器の開発に成功しました。

 

すると、そこからは自分の国を守るためにイギリス、フランス、中国も開発に乗り出し、核兵器の数とその威力が科学技術の発達とともに大きなものとなっていきました。

 

そんな核開発競争の流れに終止符を打とうとしたのが、1963年に国連で採択された「核拡散防止条約(NPT)」でした。

 

内容は、1966年末の時点で核兵器を持つ国は核保有国として正式に認め、それ以外の国は核兵器を保有してはならない、核兵器を他国に渡さない、というものでした。

 

当初から加盟した核保有国はアメリカ、ソ連、イギリスだけでしたが、1992年にこの条約に加わったフランスと中国も核保有国として認められています。

 

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これには、1962年にキューバ危機があったこともあり、核廃絶と世界平和を願う各国政府や国民の願いはもちろん、冷戦真っ只中で膨大となっていく防衛費を縮小させたいという意図がありました。

 

1970年に正式に発行したわけですが、この条約は核兵器は使ってはならない武器だと国際社会が確認した一方で、不平等な側面も持っていると自分は考えています。

 

(もちろん、核開発にストップをかけるという意味では大変意義のある条約だとおもいますが。)

 

まず、五大国(アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国)の核兵器保有を国際社会が正式に認めた上で、僕らも減らす努力をするから残りの国は核作るなよ!っと言っているのです。

 

非保有国は逆らったら核が飛んでくる可能性があるわけですから、「お前らも核廃絶しろ」なんて言えません。

 

核保有国に国際社会が忖度する形でこの条約が発行されているのです。(もちろん、保有国は自国が外交面で優位になるため、悪い気はしません。)

 

しかし、世界同時核廃絶は現実的ではなく、さらなる開発が進む恐れもあることから、いわば「現状維持」のNPT体制は機能していると言えるでしょう。

 

発行後、アメリカとソ連は核開発競争がヒートアップして核の数が増えた時代もありましたが、一応、この条約のおかげで??

現在まで核戦争には至っていません。

 

2019年現在、NPTに加盟していない国は、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮(脱退)、南スーダン(2011年に出来たばかりの国で、まだ様々な国際機関に加盟する体制が整っていないため)の5カ国です。

 

核保有国(5大国)

 

(1)アメリカ

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先程も述べましたが、世界で初めて核実験を成功させたのは1945年のアメリカです。

 

当初は日本を攻撃するためでなく、ナチスドイツが核兵器を持ったら大変なことになると考え、それに先駆けて完成させました。

 

以後、核実験を続け、その脅威は世界の警察と言われるまでになりました。

 

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、アメリカで唯一の核のボタンを起動させることができるのは大統領であり、職務中も休暇中も、常に周りの人がボタンを携帯しています。

 

(2)ソ連(ロシア)

アメリカに遅れること5年、ソ連が核実験を成功させました。

 

当時、冷戦の真っ最中、ソ連は最初の実験に成功すると自国の広大な土地を利用して壮絶な勢いで実験を繰り返しました。

 

現在では核弾頭の数はアメリカを追い抜き、世界で最も核弾頭を保有する国となっています。

 

(3)イギリス

イギリスは上記の2カ国に次いで3番目の核保有国となりました。

 

保守党のチャーチル政権が発足し、国内では労働党からの批判も大きかった中、小国の島国であるイギリスは自国の影響力の弱体化を恐れ、1952年、オーストラリア近海での核実験に踏み込みました。

 

国内での批判もあがりましたが、その後も自国の力を誇示するため、実験を重ねました。

 

また、先陣を切って核兵器の開発に反対していた学者ラッセルは、イギリス人です。

 

現在、イギリスの核弾頭の多くは潜水艦に搭載されています。

 

(4)フランス

イギリスがアメリカのデータを引き継いで核実験を成功させたのに対して、フランスは独自で開発を進めていきました。初めて成功したのは1960年のことです。

 

冷戦中、西側陣営でアメリカ、イギリスが核兵器を独占保有し主導権を握っていたことに反発した当時のド=ゴール政権が核実験に積極的に踏み切りました。

アメリカ、イギリスの反対がありながらも実験に成功し、2カ国と対等な関係を保持すると、NATOを脱退し、独自の防衛体制を整えました。(アルジェリア問題など、核開発意外にもフランスが米英と対立していた要因もありましたが、今回は割愛します)

 

フランスは、2009年にNATOに完全復帰しています。

 

(5)中国

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1964年に中国は、アジア初の核兵器保有国となりました。

広島への原爆投下以来、世界平和(均衡)を維持し戦争を抑止するためには、全ての国が核兵器を保有すれば良い、と考えていたのが毛沢東でした。

 

日中戦争の戦場となり国内も混乱していた中国は、様々な技術開発をソ連に頼っていました。そんな中国が核実験に踏み切った理由の一つが、1950年代の中ソ対立であると言われています。

 

ソ連は、「ソ連が中国はに核を提供することは、アメリカが西ドイツに核を提供する口実を作り得る」として、中国に核兵器に関する情報を渡すことを拒否しました。

 

そこで中国は、ソ連に従属するのではなく独自の影響力を保持しようと、

1959年に中ソ技術協定を破棄して、ソ連にいる技術者を帰国させて核開発を決断しました。

 

その他の核保有国

 

(6)インド

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世界第2位の人口を抱え、2020年代には中国を追い抜き人口世界1位に躍り出るとされているインドも、実は核保有国なのです。

 

初めて核実験を行なった1974年、ガンジーは原子力の平和的な利用が目的だと主張しましたが、1970年に発行したNPTについて、「5大国の軍事的優位性を加速させるものだ。」として加盟を拒否した4年後の核実験ですから…

真の目的は他の保有国と同様、自国の軍事的影響力の保持であったことは明白でしょう。

 

中国の西側、ロシアの南側に位置するこの大国は1998年にも核実験を行ない、続けて後述のパキスタンも核実験に踏み切ったことで、南アジア世界に緊張が走りました。

 

(7)パキスタン

インドと分離する形で独立したパキスタンは、独立以来現在に至るまで、カシミール地方の帰属を巡ってインドと対立しています。(2019年2月にも空爆しあうほど根深い対立と緊張が続いています。)

その後、3度にわたってインド=パキスタン戦争が勃発しました。

 

以前から中国の協力の元、核開発が進められてきましたが、1998年のインドの核実験後、

インドに対抗するためすぐにパキスタンでも核実験が行われました。

 

パキスタンの核開発に関しては、当時輸出規制がされていた遠心分離機(核開発における重要なパーツ)を日本企業が提供していたのではないかという疑惑があります。

 

また、パキスタンは冷戦終結後初めての核保有国となりました。

 

(8)北朝鮮

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たびたびニュースで話題となる北朝鮮ですが、朝鮮戦争休戦以来、核兵器の開発を進めてきました。

 

理由は、もちろん、自国の影響力の誇示ですが、北朝鮮は核実験の中止というカードをチラつかせながら、経済制裁緩和を求めて国際社会との駆け引きをしています。

 

もともとNPTに加盟していましたが、1993年と2003年に脱退を表明し、2006年に初の核実験を行ないました。

 

北朝鮮については以前の記事でも少し紹介していますので、お時間のある方は是非ご覧ください。

 

(9)イスラエル

正式に核保有を肯定していないものの、イスラエルは核兵器を保有していることが確実であるとされています。イスラエルは中東で唯一のNPT非加盟国です。

 

1979年に核実験を行なったとの疑惑が浮上しましたが、アメリカの調査でこれは否定されました。(しかし、アメリカとイスラエルは同盟国です。。)

 

イスラエルが核実験を決断した理由(あくまで疑惑ですが、、)は、やはりアラブ地域との対立です。

 

第1次世界大戦後のイギリス多重舌外交によってアラブ地域は現在まで紛争状態が続いており、そのことが背景になっていることに疑いの余地はありません。

 

(10)イラン

イランもイスラエル同様、核兵器の保有を疑われている国です。

 

2002年、内部告発によって、イランには以前から核開発の計画があったことが暴かれ、国際社会から嫌疑をかけられました。

 

原子力を利用するためには国際原子力機関の承認がいるのですが、2003年、国際原子力機関の許可なくウランを濃縮する施設を建設していたことが判明しました。

 

それにより、イランは軍事的利用が可能な核兵器の開発に乗り出している(あるいは、もう完成している?)とされています。

 

しかし、イラン政府は原子力の開発を認めたものの、軍事的な核兵器の開発には否定を続けています。

 

(11)シリア

シリアでは、核兵器開発に必要なプルトニウムを製造するための施設が、北朝鮮の支援によって建設されたとされています。

 

しかし、北朝鮮がこれを否定しています。

 

施設自体はイスラエルによって破壊されましたが、シリアは国際社会で孤立しており、政府軍と反政府勢力による紛争状態が続いているため、詳細は不明です。

 

核保有国、核保有疑惑国は以上の11カ国ですが、最近では、サウジアラビアとミャンマーも疑いがあるのではないかとされています。

 

今後、各国の偵察機や衛生がさらなる進化を遂げれば、その実情がはっきりしてくるかもしれません。

 

核廃絶の動きは?

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広島・長崎の原爆投下、第五福竜丸の事故、キューバ危機など、核兵器をめぐっては様々な出来事があります。

その度に、国際社会は核廃絶を訴えるものの、核保有国は減るどころか増えています。

 

核兵器は使ってしまったら世界が終焉を迎える武器であると、誰もがわかっているのにその脅威が現在のバランスを保っている、というのは何とも皮肉なものです。

 

日本についても同様です。

世界唯一の被爆国でありながら、現在、同盟国のアメリカの「核の傘」に守ってもらっているという現状があります。

 

自分は核保有については反対ですが、現在の均衡を保つためには核兵器は仕方ないものであると考えています。

 

正直、この結論を述べること自体、悔しいです。

 

確かに、核兵器は生物も国も文明も、全てを破壊する、決して開けてはならないパンドラの箱であることを知っています。

 

しかし、仮に核兵器保有国が集まって今すぐ完全に廃絶しようと約束をしたとして、それを信用し合えるでしょうか。

 

どこかの国が抜け駆けしたら…

少しでもこう思ってしまう国が出てきたらどうなるでしょうか。

 

現状を変えるのは難しいでしょう。

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回は少し重い内容になってしまいました。

 

核兵器は、権力者の駆け引きの道具のように使われていますが、自分も、皆さんも、権力者の方々も、それがどのようなものなのか、絶対に忘れてはならないと思います。

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明智光秀~【麒麟がくる】信長を裏切った本当の理由とは~

明智光秀 像 

明智光秀像:WikimediaCommmonsより引用
・名前 
明智十兵衛光秀(あけち じゅうべえ みつひで)

・生きた年代(死没した年代)
おそらく1516年(永正十三年)~1582年(天正十年)

・性別
・出生 
美濃国(みのこく・現在の岐阜県南部)にて1516年生まれ。(所説あり。ここでは当代記を参照)

・死没
山崎の戦い(摂津国と山城国の境・現在の大阪府三島郡本町山崎にて)

・所属していた勢力
土岐氏斎藤道三朝倉義景幕府奉公衆織田信長

 ・官位
従五位下日向守(日向:現在の宮崎県)

・親族
光兼(父・光綱であるとの説もある)
光重(祖父)
玄宣(曾祖父・幕府奉公衆かつ連歌の歌人として著名)
煕子(正室)
光慶(長男)
細川ガラシャ(三女・細川忠興の正室)ほか

・同時代に活躍した人物
織田信長/豊臣秀吉/徳川家康/斎藤道三/雪舟/ガリレオ・ガリレイ(伊)/マルティン・ルター(神聖ローマ帝国)/ウィリアム・シェイクスピア(イングランド)ほか

本能寺の変で信長を討った明智光秀・その知られざる素顔とは

楊斎延一(ヨウサイノブカズ)の「本能寺焼討之図」

楊斎延一(ヨウサイノブカズ)の「本能寺焼討之図」:WikipediaCommonsより引用

「敵は本能寺にあり!!」

―天正十年(1582年)6月2日未明。草木も寝静まったころ、織田信長は突如として家臣・明智光秀からの襲撃を受けた。一万三千もの明智軍勢は一瞬にして本能寺をとり囲み、守衛を次々と突破していく。このとき織田軍はわずか100人であり、信長にもはや勝ち目はなかった。自らの死を悟った信長は、最愛の正室、濃姫(のうひめ)とともに寺に火を放ち、腹を裂いて自害した。燃え上がる本能寺が、あかあかと京の空を染めた―

主君として忠誠を誓ったはずの信長を奇襲して自害に追いやった明智光秀。当時天下統一まであと一歩のところであった信長を陥れ、遂にその名を天下に轟かせたようにみえた。しかし本能寺の変のわずか13日後、山崎の戦いにおいて羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に敗北を喫し、その生涯に幕を閉じることとなる。この非常に短期間で終わった明智光秀の権勢は「三日天下」と揶揄されるほどだ。しかしながら、この本能寺の変によってその後の日本の歴史は否応なしに大きく動いていくこととなった。

パラメーター

(1)

指導力4(5段階で評価)

信長に仕えていたころの光秀は、各地の制圧を任され軍を率いることが多かった。持ち前の軍才と明晰な頭脳で多くの戦いを成功に導いた。ただし、丹波平定の際には長期におよび苦戦するなど完璧であるとは言い難い。しかしながらその指導力は非常に優れていたと言ってよいだろう。

人望4

戦国時代は動乱の世である。各地に戦国大名が群雄割拠し勢力拡大を目指してしのぎを削っていた。さながら今日の味方は明日の敵といった塩梅だ。主人、家臣を問わず騙しあいが横行したこの下克上の世で、勿論、光秀もしっかりと処世術を身に着けていた。

いくつか例をあげよう。斎藤道三、義龍に美濃の支配権を奪われ、居場所をなくしたときのことだ。光秀は主人であった土岐頼純(トキヨリズミ)の母の家系である朝倉氏を頼って美濃から越前(福井県)にうまく逃れた。そして移ったさきの越前では称念寺(ショウネンジ)の坊主であった薗阿上人(エンアショウニン)と親交を深め、連歌(レンガ)の腕に磨きをかける。この越前での20年近い生活で彼は盤石な人脈を築いた。これらの事実から鑑みるに、人望は十分にあったといえるだろう。更には京都に移ったのちも公家(貴族)の吉田兼右(カネミギ)、兼見(カネミ)親子と親しい間柄であったことが明らかになっている。そして何より、本能寺の変で信長を包囲した一万三千もの大軍を率いたのは、明智光秀、その人である。

政治力4

光秀は直接政治を行ったことはほぼないといえる。しかし諸国で群雄割拠する大名を支配下に置き、全国を統一する野望を持った信長が作戦立案をする際、光秀に相談をもちかけたことからも窺えるように、彼は頭脳として信長から深く信頼を寄せられていた。しかし直接手を下すことはあまりなかったため、光秀にだけフォーカスした伝記などはあまり残されず、後世に伝わるものは多いとは言い難い。

知力5

もともと単なる地方出身の侍であった光秀は偶然幕府に見初められて類いまれなスピードで昇進していく。なぜか。それは彼が非常な歌詠みのセンス高い行政処理力軍才を有していたからに他ならない。いわばマルチプレイヤーであったといってもよい。ずっと地方の辺境に身を置いていた光秀は、当然最初は足軽衆(武士と農民の間に位置する身分の低い武士)であった。しかしある日突然、晴れ舞台に立つこととなる。まず1つは貴族の間で催される連歌会への出席だ。これは地方の足軽には到底考えられない格式高い場であり、光秀も戦々恐々としたことだろう。しかし、ここで光秀は実に見事な句を6句詠み、その名を貴族社会に知らしめた。もとはと言えば彼の曾祖父も名高い歌人であり、その血を見事に受け継いだといもいえる。天性の芸術肌だ。

快進撃はとどまらない。彼は幕府の役人として仕事を始めたのち、膨大な量の訴訟問題を扱うようになる。そしてすべて裁く。その高い行政処理能力はやがて信長の目にも留まるようになる。キャリアマンとしても大変優れていた

さらに1570年(元亀元年)、織田軍と幕府軍がともに朝倉軍に戦いを挑んだときのこと。越前(福井県)に人脈と土地勘があり、戦の経験が豊富な光秀の存在は彼らに必要不可欠であった。その後に起きた姉川の戦いでは、見事織田軍は朝倉・浅井両氏を打ち破り勝利を手にしている。光秀の軍才は信長すらも唸らせるものだったのだ。

忍耐力5

彼が信長や足利義昭にその存在を認知され、日本史に大きく姿を現すのは彼が50歳を超えてからである。それまでの彼の人生は、お世辞にも華やかなものとは言い難い。むしろ苦難の連続であったといってよいだろう。幼いころから運命を共にし、固く忠誠を誓った主の毒死や、自らの一族の没落辺境での生活を20年近く強いられたことなどが、光秀にとってどれだけ辛く厳しい現実であったかは想像に難くない。しかし決して腐らず、その場その場でできることを地道に積み重ねた。その結果、高い能力を身につけ信長に見いだされていくこととなるのだ。

知られざる苦難の半生

明智城跡

明智城跡:WikimediaCommonsより引用
現在の岐阜県可児市・光秀出生の地と伝わる

1516年(永正十三年)、美濃国にて生まれたといわれる明智十兵衛光秀。かつて美濃を支配下に置いた土岐(トキ)氏の家臣である明智光兼のもとに生まれる。戦国の世ではあったが、当時はまだ室町幕府が存在していた。のちの江戸幕府などと同様に、この室町幕府でも1代、2代・・・と直系家族的に将軍の位の継承が行われていた。しかし1493年に起きた明応(メイオウ)の政変。これによって足利将軍家は二分されてしまう。東軍と西軍の2つに分かれた将軍家のどちらの肩を持つか。内部抗争が光秀の身近な場所にも巻き起こったのである。光秀の仕える土岐一族は不安定な時代に突入していく。土岐氏はかつては美濃で大きな力をもち繁栄した一族であったが、このころ既に斜陽であった。

光秀はその父、祖父とともに足利東軍の義澄(ヨシズミ)を支持。同じく義澄を支持する一派の主である土岐頼純(ヨリズミ)にはじめて家臣として仕えることとなる。ここで驚くべきはその年齢である。仕えた当時光秀がわずか10歳、主人である頼純は2歳の赤ん坊であった。

はじめて家臣として仕えた主人は自分と8歳も年下。大名と御家人というよりはさながら兄弟のような間柄であったのではないだろうか。ある意味、主と家臣という立場を超えた紐帯が二人の間には結ばれていた。事実、斎藤道三との三度におよぶ戦いでも光秀は必死に主人・頼純を守り抜いたのだ。光秀が20歳の時に起こった戦いでも、12歳の主君頼純を弟のように守り抜いた。頼純もまた光秀を兄のように慕っていた。少年期・青年期の時間の多くを頼純のもとで過ごした

鷲林山常在寺(ジュウリンザンジョウザイジ)所蔵の斎藤道三像

鷲林山常在寺(ジュウリンザンジョウザイジ)所蔵の斎藤道三像:WikipediaCommonsより引用

しかしこの頃になると、斎藤道三の美濃に持つ影響力はますます大きなものとなる。土岐氏の美濃支配は、道三の登場によって危機的状況に追い込まれていく。1544年(天文十三年)、四度目の戦いを道三に仕掛けるも敗北。すでに美濃は道三に支配され光秀らの居場所はなかった。その二年後に主君・頼純は道三と和睦を結び、その条件として道三の娘を嫁にとることとなった。光秀31歳、頼純23歳のことである。この若い主君にとって、宿敵の娘を嫁にとるという決断が苦しいものであったことは想像に難くない。まるで弟のようであった主人のこの決断は、光秀の眼に果たしてどう映ったであろうか。

1547年(天文十六年)11月。頼純、急死。

死因は誰も突き止められなかった。斎藤道三の毒殺が疑われたが、強い支配力を持った彼に歯向かえる者はどこにもいなかった。幼少の頃から運命を共にしてきた主人を失った光秀。弟のような大きな存在を失った悲しみと喪失感がどれほどのものだったかは想像に余りある。光秀32歳でのことである。

斎藤道三らによる美濃支配は強固になる一方で、光秀ら土岐一族の居場所はなくなってしまった。美濃に彼らの支配力はもう既になかったのだ。彼は仕方なく、縁を頼りに戦国大名・朝倉氏の本拠である越前(現在の福井県)に移り、実に10年におよぶ隠居生活を送ることになる。この時すでに光秀は41歳。主人を亡くし、敵勢力に自らの本拠地も奪われ、遠く辺境の地でいつ終わるとも知れない隠居を強いられることとなった。

越前に渡った光秀。道三との四度に及ぶ戦いで経験を豊富に積んでいたため、敵征討の前線基地であった舟寄城(フナヨセジョウ)に身を寄せることとなった。とはいえ、この生活は光秀にとって非常に空虚なものであっただろう。年齢もすでに若くはない。越前に来て娘を三人授かりはしたものの、男子は生まれなかった。かつて幕府奉公衆(幕府の武力担当職)に取り立てられたほどの名門の家系は、自分の代で終わる。おまけに代々大切に繋いできた美濃の所領はもうない。非常に苦しい現実であっただろう。しかしこれが戦国時代なのだ。弱き者は滅び、強き者だけが生き残るのである。

類まれな大出世・遅咲きの戦国武将

―契機は突然にして、訪れた―

時の将軍足利13代目・義輝(ヨシテル)が京都にて暗殺される事件が起こった。1565年のことである(永禄の変)。足利幕府の存続を脅かされた大事件である。これにより足利幕府はさらに衰退。幕府を運営するために必要な人手が大きく減ってしまったため、急遽光秀に声がかかったのである。地方出身の単なる足軽に等しかった光秀が、突如として中央政治の場に転がり込んだのである。京都には室町(足利)幕府や朝廷(天皇の住まい)がある。言ってみれば当時の首都である。これは光秀にしてみればまさしく晴天の霹靂であったといえるだろう。このとき光秀実に50歳であった。

こうして1568年(永禄十一年)、遂に光秀は京都の地を踏んだ。当初は幕府の役人といえども足軽衆(アシガルシュウ)というあまり高くない地位に属していた。しかしここから光秀の驚くべき出世劇が始まる。

冒頭に光秀の曾祖父は名高い連歌の歌人であったと書いた。その名も明智玄宣。彼の名は京都の貴族の間でも広く知れ渡っており、ひ孫であった光秀が貴族主催の連歌会に招かれることの理由となった。地方出身の足軽衆に過ぎなかった光秀が、このような晴れやかな場に招待されることは極めて異例であった。しかしそんなプレッシャーをもろともせず、実に見事な詩を六句披露している。光秀の存在が貴族や上級武士に徐々に認知されはじめた。

続いて1569年(永禄十二年)の出来事である。将軍義昭の滞在する本圀寺(ホンコクジ)を三好氏が襲撃した。幕府が滅びかねない危機的状況である。このとき本圀寺に立てこもり将軍を守り抜いた十三人の侍。このひとりに光秀がいた。結果として将軍は無事であり、幕府転倒の危機は寸でのところで回避された。この光秀の活躍により将軍の光秀に対する評価は格段にあがることとなり、彼は御家人の中核を担う幕府奉公衆に大出世。光秀の地位は盤石なものとなったのだ。翌年には待ち望んだ長男である光慶(ミツヨシ)も生まれている。彼の人生が遂に大きく動き出したのだ。

信長との出会い

こうして彼は将軍義昭のもとで多くの仕事を任されるようになった。例えば大量に寄せられた訴訟処理や、朝廷の対応役である。このころになると光秀は一人で幕府と朝廷の調整役を裁くという大任を任されていた。ここに目を付けたのが信長だ。信長は当時、将軍義昭の権力を後ろ盾に付けることによって自らの権力の更なる増大を目論んでいた。つまり将軍義昭と近しいポジションにいたのだ。当然、彼は信長の目に触れることとなる。次第に、信長が戦術を考案する際には彼の相談を仰ぐようになったのだ。

―1571年(元亀二年)比叡山焼き討ち事件―

信長の残虐さを物語るうえで必ず引き合いに出されるこの事件。ここでも光秀は信長と軍事行動を共にし、大きな手柄をたてた。通説では彼は比叡山焼き討ちに反対したとあるが、実際はそうではない。それが証拠に、この焼き討ち後に彼は信長から志賀軍を与えられ、坂本城を居城にしたのだ。光秀が第一線で活躍した褒美として。

坂本城址公園における明智光秀像

坂本城址公園における明智光秀像:WikipediaCommonsより引用

前述の通り光秀は幕府奉公衆として義昭に仕えていた。しかし一方で信長に重用されその結びつきをどんどんと強めていった為、このころになると両属状態になっていた。しかし結果として光秀は・・・・信長側を選んだのである。なるほど光秀は信長の家臣となれば近江坂本城主に取り立てられ、入京からわずか3年にして異例の出世を成し遂げることとなる。これは義昭のもとで奉公衆を続けていても決して叶わない偉業であったはずだからだ。

こうして美濃からはぐれた末に辺境の越前を放浪した光秀は、中央政治の舞台を経て遂に城を持つ大名にまでのしあがったのだ。このとき光秀は56歳。武将としてはあまりに遅咲きであった。

1573年(元亀四年)天下統一を目論む信長により15代将軍・義昭が京都から追放された。これにより将軍権威は失墜し、室町幕府は事実上滅亡した。義昭のもとを完全に離れ、信長に忠誠を誓っていくのだった。信長の寵愛を受け、彼の武将としての人生は満風を帆に受けて動き出したように見えた。しかしここに苦難が立ちはだかる。

光秀は天下統一を目論む信長に丹波(現在の京都府北部から兵庫県中部にまたがる地域)の平定を命じられた。当初はいとも簡単に制圧出来るものと思われたが、後々非常に時間を要することとなった。そして丹波の敵勢力に敗北を喫してしまう。しかも同じ年、戦に出向いた先で赤痢(セキリ)を患い、既に61歳を迎えた老体は生死をさまようこととなった。加えて4か月後には光秀の妻が病に倒れ帰らぬ人となったのだ。この立て続けに起きた悲劇が彼に与えた影響は計り知れない。1576年のことであった。

光秀の裏切りと本能寺の変

順風を帆に受けてようやく動き出したように見えた彼の武将人生。しかし彼と信長との間の関係に亀裂を入れる重大な出来事が起こることとなる。全ては信長の大いなる野望に起因していた。中国大陸統一である。

当時国内を統一しかけていた信長の次なる欲望は、(ミン、中国大陸の王朝)制服であった。甚だ突飛に見えるこの野望を、信長は大真面目に実行しようとしていたのだ。明に進軍するとなると、前線で戦を指揮し舵をとるのは当然、光秀らとなる。光秀だけではない。ようやく生まれた彼の息子も戦地に赴くことになる。圧倒的な明の軍力に到底敵うわけもなく、野垂れ死ぬことは自明であった。

それだけではない。信長は当時四国を支配していた長宗我部(チョウソカベ)氏を滅ぼそうとしていた。長宗我部氏と光秀は同盟関係にあり、死なれては信長政権下における明智の立場は圧倒的不利となる。

勿論光秀は信長を説得することも試みただろう。しかし信長は反論する年老いた光秀に殴る蹴るの暴行を加えるなど、到底話の通じる相手ではなかった。

そもそも光秀が本当に欲したものは、何だったか。

権力?地位?名誉?そうではない。

彼が本当に望んだものは、明智一族の将来にわたる安寧であったのだ。

既に67歳となった我が身はもう長くはないだろう。しかし、彼には守るべきものがあった。娘や息子が自分の死んだあとも幸せに繁栄していくこと。一度は潰えたように見えた明智の家系を未来に繋いでいくこと。それが男として、武将としての彼の責務だったのだ。彼が一番欲しかったものは、娘や息子の笑顔だったのかもしれない。

戦地で息子を無駄死にさせては絶対にならない。長宗我部氏という同盟がなくなればまだ幼い息子は到底やり抜いていけない。

天正十年(1582年)6月2日未明。明智光秀は信長の待つ本能寺を奇襲した。信長に腹を裂いて自害させ、寺は燃えさかった。その炎は、あかあかと京の空を染めた。

引用・参考文献

・小林正信著 明智光秀の乱 里文出版


・明智憲三郎著 光秀からの遺言~本能寺の変 436年後の発見~河出書房新社 

 

諸葛亮 〜三顧の礼でニートから転身!蜀を死ぬまで支えた天才軍師〜

諸葛亮の絵画

諸葛亮の絵画:wikipediacommonsより引用

プロフィール

・名前
諸葛亮 孔明(ショカツリョウコウメイコウメイ)

・生きた年代(死没した年齢)
181〜234年

・性別


・出生地
徐州瑯琊郡(ジョシュウ ロウヤグン。現在の山東省の一部)

・死没地
五丈原(ゴジョウゲン。現在の陝西省にある原野)

・所属していた勢力
(ショク。蜀漢) 

・地位、称号、階級
丞相(ジョウショウ)
忠武侯(チュウブコウ)

・親族
諸葛豊(ショカツホウ。祖先)
諸葛圭(ショカツケイ。父)
諸葛瑾(ショカツキン。兄)
諸葛恪(ショカツカク。甥)
諸葛均(ショカツキン。弟)
諸葛瞻(ショカツセン。子)


・同時代に活躍した人物
カラカラ帝(188~217年)

三顧の礼でニートから転身!蜀を死ぬまで支えた天才軍師

「万歳堂竹荘華傳(1921年)」における諸葛亮

万歳堂竹荘華傳(1921年)」における諸葛亮:WikipediaCommonsより引用

 三国時代の動乱期、最弱と言っても過言では無かった劉備(リュウビ)を蜀の建国を成し遂げるまでに押し上げ、文官(ブンカン。現在の官僚に当たる)の筆頭として死ぬまで国を支え続けた諸葛亮孔明。一般的にはレッドクリフや漫画横山光輝三国志の影響から、天才軍師として知られている。

諸葛亮の幼少期は過酷な物だった。親や扶養者が相次いで死に、里親の元を転々としつつ、各地を転居する日々を送った。戦乱から逃れ、劉表(リュウヒョウ)統治していた南に移住した際に、人物鑑定士として有名な司馬徽(シバキ)に見初められる。司馬徽には「臥龍(ガリュウ)」と称され、高い評価を受ける。しかし、周囲の評価とは裏腹に誰にも仕えようとはせず、晴耕雨読の日々を送っていた。劉備はその名声を聞くと、諸葛亮を配下に引き入れようと考えた。劉備の熱意は凄まじく、三度も諸葛亮の元を訪ね、諸葛亮を説き伏せた。諸葛亮も重い腰を上げ、幕僚として迎え入れられる事になる。その後は劉備軍における文官の中心的役割を務め、赤壁の戦いでは孫権との同盟の使者になる。

 赤壁の戦いを経て最弱であった劉備軍はみるみる拡大していく。諸葛亮は軍事と政治両面から劉備を大いに助けた。その功績が認められ、劉備が皇帝となった後は丞相(ジョウショウ。現代で言う総理大臣)の位になり、名実共に蜀のナンバー2となる。行政のトップとして行政改革も行い、よく治め公正かつ臨機応変に判断し、制度を簡約化した。223年の劉備死後の混乱を収め、国内を固めると北伐(ホクバツ。北方の国を討伐するための遠征)を繰り返し、大国の(ギ)に挑み続けた。一度目の北伐は魏の西方の要所である長安に迫るものの、部下の失態によって撤退し、その後も攻めあぐねる。晩年、五度目の北伐に挑むものの、魏と戦いのさなかに五丈原(ゴジョウゲン)の陣中で死亡した。享年54歳だった。

パラメーター

諸葛亮のパラメーター

指導力4(5段階で評価)

 決して一枚岩ではない蜀を長年支え続ける。諸葛亮は法治主義(法律を重視する考え方)に徹し、罪がある者には罪を与え、功績のある者には十分な恩賞を与えた(恩賞必罰オンショウヒツバツ)。これにより、秩序を持って国の統率に務めた。劉備死後の内乱の鎮圧に手こずるものの、自らが出陣する事で混乱を収めた。軍事的な指導力ではやや曹操などの魏の諸将より劣るものの、5度の大遠征を纏め上げた統率力は流石である。 三国時代の中でも数少ない名将と言っても良いだろう。

人望4

 前述の通り公正な采配を行ったため、人から恨まれる事は少なかった。死後は国(蜀)が禁止したにも関わらず、民間信仰が盛んになるなど、民衆からの支持も厚かった。

政治力5

 弱小の蜀を支え続けた諸葛亮の政治力は凄まじい。諸葛亮は恩賞必罰かつ公平な采配を行い、不満を最小限にした。国を運営していく実務家としての能力だけでなく、外交力も持ち合わせており、曹操に立ち向かうかどうかで悩んでいた孫権を巧みに説得して曹操を退かせた実績もある。また、劉備死後、蜀と呉の関係が劣悪になっていた所に外交官鄧芝(トウシ)を派遣し、関係が修復したのも孫権が後継者の劉禅を信用したからではなく、諸葛亮を信用したからである。このような政治的な関係構築も上手かったと考えられる。

知力4

   「神算鬼謀(シンサンキボウ。人知を超えた采配の事。)の天才軍師」と世間で言われている諸葛亮はいささか言い過ぎだが、卓越した知性を持っていたのは間違いない。弱小勢力の劉備に生き残るための「天下三分の計」を提示し、途中までは見事にそれを現実化させた。天下三分の計とは、既に勢力基盤を築いていた魏と呉とは争わず、他の手の付けられていない領土であった益州を取る事で勢力基盤を作り、最終的に呉と連合して魏に対抗するという戦略である。この戦略は当時の勢力図を塗り替え、蜀を建国する事に成功した。情勢を深く正確に分析していた証拠である。

しかし、5度の北伐の中で兵糧不足に何度も苦しめられながら、十分な対策できなかった点や責任重大とはいえ奇策で一発逆転を狙えず最後まで領土を拡大できなかった点、馬謖(バショク)や李厳(リゲン)などの人材採用で過ちを犯してしまった点を考え減点とした。

発明5

 諸葛亮は発明の名人でもあり、多数の兵器を開発している。蜀の兵糧問題を解決するために、木牛(モクギュウ)と流馬(リュウバ)という輸送兵器を開発、兵糧輸送を円滑にした。南宋(1127年~1279年。諸葛亮の時代より1000年後の王朝)の逸話では妻の黄夫人(コウフジン。黄月英という名前も用いられる)が木牛と流馬を開発したともされている。

 また、攻城兵器として井闌(セイラン)や雲梯(ウンテイ)、衝車(ショウシャ)などの大型兵器を開発し、攻城の威力を高めた。元戎弩(ゲンジュウド)というボーガンも開発し、魏の名将張郃(チョウコウ)を討取る戦果を挙げている。

若くして自らの才能を誇る

 諸葛亮は徐州(ジョシュウ。江蘇省の一部。)に生まれた。ルーツは中央官吏を監察する司隷校尉(シレイコウイ。曹操も若き頃にはこの役職を務めていた。)を務めた諸葛豊(ショカツホウ)にあたる。父親を幼くして亡くし、弟の諸葛均(ショカツキン)と共に叔父の諸葛玄(ショカツゲン)に引き取られた。諸葛玄は自らの立場が危うくなったため、親交のあった荊州(ケイシュウ。中国南側の真ん中の領地)を治める劉表(リュウヒョウ)を頼る。

後に諸葛玄は亡くなり、諸葛亮は勉学に励みつつ、自ら田畑をたがやした。自らを楽毅(ガクキ)管仲(カンチュウ)ガクキ。カンチュウ。両者とも三国時代以前の中国の英雄)とくらべ才能を自認したが、世間はそれを認めなかった。しかし、後に劉備に仕える事になる徐庶(ジョシュウ)や友人の崔州平(サイシュウヘイ)はそれを認め、人物鑑定士の司馬徽(シバキ)は龐統(ホウトウ)と並び諸葛亮を「臥龍と鳳雛」と称した。臥龍とは臥(フ)せた龍を意味し、まだ世に出てない大人物の事を言う。龐統とは後に劉備軍の軍師となる人物で、鳳雛も同じように眠れる雛を表し、同様にまだ世に出てない人物を意味した。

諸葛亮はこうして一定の人物に評価されたものの、自らの庵に引きこもり、晴耕雨読の日々を過ごした。評された通り伏せた龍となってしまい、現代で言うニートに甘んじてしまう。

ニートから転身!「天下三分の計」

明時代の三顧の絵画.jpg

時代(1368〜1644)の三顧の礼の絵画:WikipediaCommonsより引用

 当時荊州(ケイシュウ)の劉表(リュウヒョウ)の領地を一部任されていた劉備は、会見した徐庶(ジョショ)から諸葛亮の話を聞き、呼び寄せようとした。しかし、徐庶は劉備に自ら出向くように説得し、納得した上で三度も訪問した。諸葛亮も目上の人物からの三度の訪問に感服し、これを了承した。これがかの有名な三顧の礼である。今でも目上の人物が優秀な人を直談判で迎え入れる時に良く使われる。

当時弱小と言うべき勢力だった劉備は自身の勢力をどう広げれば良いかが悩みの種だった。三顧の礼の間、この事を諸葛亮に相談した所、諸葛亮はある計略を提案した。それが天下三分の計であった。天下三分の計とは、当時最大の勢力となっていた曹操とはできるだけ対立せず、中国南東の江東(コウトウ)を治めていた孫権と協力し、中国南方の中心である荊州と西方の領土である益州を糾合し、その後に曹操を攻めると言うものである。劉備はこの計画に大変感服し、お互いの仲が深まったという。いよいよニートから転身する時がきたのだ。

赤壁の戦いで外交官として活躍

湖北省(コホクショウ)赤壁市にある赤壁の戦いの推定値とされている場所

湖北省(コホクショウ)赤壁市にある赤壁の戦いの推定値とされている場所:WikipediaCommonsより引用

 諸葛亮はこうして劉備の幕僚となったが、絶体絶命の危機が間もなくやってくる事になる。北方の袁紹(エンショウ)を倒した曹操が南を目指しはじめたのである。曹操は瞬く間に劉表の領地であった荊州に攻め込み、占領。劉備を夏口(カコウ)という小さな街にまで追いやった。そして次は江東を呑み込もうと孫権を虎視眈々と狙っていたのである。孫権は対応を余儀なくされ、目前まで迫ってきた曹操軍に降伏するか劉備と同盟し徹底抗戦するかの決断を迫られた。

 劉備は弱小のため、孫権と同盟し、孫権と曹操を戦わせるしかなかった。諸葛亮を外交特使として派遣し、孫権の説得にあたらせた。こうして孫権と諸葛亮は合間見え、外交交渉が始まった。

 先手を打ったのは諸葛亮だった。諸葛亮は孫権にわざと降伏を勧め、プライドをくすぐった。これに対して孫権は曹操との戦力差を指摘したが諸葛亮も切り返し、曹操軍が遠方からの侵攻で疲れ切っている事や水戦に慣れていない事、荊州の人民も力で支配されているだけであって曹操への忠誠心がない事を説いた。最後に、「天下三分の計」を説明し、孫権を納得させた。すぐさま孫権は孫権軍の名将達である周瑜(シュウユ)・程普魯粛(ロシュク)に3万の兵を与えて曹操を食い止めさせた。

映画レッドクリフでは、3万本の矢を曹操から借りてくる話や風向きを呪術で変える話など諸葛亮を神と思わせるような演出がされているが、あれは小説『三国志演義』の創作である。神のような所業が嘘であるとはいえ、諸葛亮が孫権を説得し、孫権を曹操と戦わせたというのは劉備に対する多大な貢献であるのは言うまでもない。諸葛亮の目論見通り曹操は退いた。

稀代の政治家「諸葛亮」

劉備と諸葛亮の銅像である「魚水君臣」

劉備諸葛亮の「魚水君臣」の銅像:WikipediaCommonsより引用
劉備は「孔明(諸葛亮のあざ名)が水で私は魚のようなものである。」と語った。

 曹操が荊州から退いた後は、劉備軍は諸葛亮やその後に加わった諸葛亮に並び評される軍師龐統(ホウトウ)の助言を得て、着々とその勢力を固め、益州(エキシュウ。中国南西の地方。)への制圧へと乗り出した。劉備は最初益州の領主である劉璋(リュウショウ)の抵抗に苦戦し最初たものの、諸葛亮や張飛(チョウヒ)、趙雲(チョウウン)などの援軍を荊州から要請し、なんとか益州の制圧に成功した。益州は蜀の中心的な領土となる。

諸葛亮はその後益州を中心とした蜀(自称は漢。蜀漢と称する時もある。)の政治の中心を担うようになる。法正(ホウセイ)や劉巴(リュウハ)、李厳(リゲン)、伊籍(イセキ)とともに蜀の法律である「蜀科(ショクカ)」を制定した。制定者の面々はいずれも蜀の政治中枢を担う人物である。「蜀科」は厳しく法治主義を導入したものの、公平であったため民衆の不満はなかったとされている。そして、制度も分かりやすく簡略化していったと言う。

また蜀の直面していた政治的な特徴として、荊州閥益州閥の区別がある。荊州閥とは劉備が元いた荊州の頃から付き従っていた人材の事。それに対し、益州閥とは劉備の前の劉璋(リュウショウ)の頃から益州にいて、その後に劉備の配下になった人物の事を言う。劉備は当然信頼のおける荊州閥である諸葛亮や関羽(カンウ)、張飛を始めとした益州閥を要職に置いた。「蜀科」を制定した法正や劉巴、李厳、伊籍の中でも益州閥は一人も居ない。法正や劉巴、李厳は劉璋の部下であったが出身は益州だったため、純粋な益州閥ではなくむしろ荊州閥と言える。諸葛亮はその後も優秀な益州閥は採用して益州閥の不満を抑えつつも、荊州閥がしっかりと政権の中枢を担う体制を維持し続けた。

このような法治主義に照らした改革と派閥間の調整を行う中で、諸葛亮は難しい舵取りを迫られた。蜀が小国ながら一体感を持って大国である魏に反抗し続ける事ができたのは諸葛亮の政治力による所が大きいのは間違いない。『三国志演義』やそれを元にしたレッドクリフなどの創作物では諸葛亮を計略や兵法の達人と強調するが、歴史的には蜀の劉政権を安定させた政治家としての功績の方が強いのである。一方で、計略や兵法を駆使する将軍としての諸葛亮は後々解説する。

劉備の死、後事を託される

三国時代(262年)の勢力図

三国時代(262年)の勢力図:WikipediaCommonsより引用
劉備が荊州を失った後、三国鼎立(三つの国が均衡を保つ事)の状態となった地図。
が圧倒的である事が分かる。

 蜀は連戦連勝、益州を奪ったばかりか魏を攻めるための要所となる漢中を奪い取る事に成功。国内も固まり、「天下三分の計」を実現するために魏に大攻勢を仕掛ける時が来ていた。しかしそんな時、蜀の転機が訪れる。荊州(江陵などの東側の領土)を統治していた関羽曹操を攻めるが、荊州領土を欲していた孫権と挟み撃ちにされてしまったのだ。

結果、関羽は討ち取られ、荊州の領土も失ってしまう。劉備は関羽の死と荊州を失った事に激昂し、荊州に攻め込み孫権を討ち取ろうとする。劉備は諸葛亮の静止もしたが、旗揚げ以来付き従った張飛を暗殺したが呉に逃げた事もあいまって、出撃を決断。最初は攻勢するものの、呉の若将軍陸遜(リクソン)の火攻めを受け撤退してしまう(夷陵の戦い)。劉備は呉との国境に近い白帝城に退き、再起を図ろうとするがやがて自分の死期を察した。

死期を察した劉備は諸葛亮と次期蜀皇帝劉禅の弟である劉永(リュウエイ)らを呼び寄せた。劉備は諸葛亮に「自分の息子(リュウゼン)が補佐に足る人物なら助けてやって欲しい。だが、才能に足らない人物であれば君が国を取っても良い。」と遺した。主君である劉備に”息子の代わりに国を取っても良い”とまで言わせたのだから、諸葛亮が一層忠節に励もうと思ったのは間違いない。

しかし、蜀の先は暗いと言っても良い。「天下三分の計」 は益州と荊州両方あって初めて成り立つ計略である。荊州を失った今残っているのは益州だけだが、益州は基本守りに適した土地で、天然の要害が敵の侵攻から守ってくれる一方、要害であればこそ進軍には適さなかった。そのため、に打って出やすい荊州の土地は天下統一にとって必須だった。

更に、益州閥と荊州閥の対立を抑える旗印となっていた劉備を失い、戦慣れしていた将軍である関羽や張飛などの名将まで失ったため、は益々戦力が低下していた。諸葛亮劉備の死後、こうした悪条件と直面する事になる。

  

打倒魏!北伐に挑む

 次期皇帝の劉禅は政治・軍事両面にも興味を示さなかったので、諸葛亮は蜀の事実上のトップとなる。劉備の死後、国内は一時混乱した。異民族や地方の豪族が反乱を次々に起こし、諸葛亮はその対応に追われればならなかった。最も規模の大きかった南方での反乱を自ら鎮圧し、再び魏に対する軍を起すまでに5年の歳月を有した。

時間は掛かったものの、諸葛亮は異民族に対しては比較的寛容な采配をし、異民族の長を地方長官に任命するなど懐柔策を取った。そのため異民族は諸葛亮は慕い、魏を攻めるための物資や兵士の調達が南方からできるようになった。これは後顧の憂いを断つためにも非常に意味のある事であったと言える。

ついに魏に打って出る時が来た。諸葛亮は「出師の表」という劉禅に対する上奏文を書き、決意を表明する。亡き劉備への思いや忠義の心、蜀の都成都に残す劉禅への叱咤や注意書きが綴られた名文であった。これは後世の人間の評価だが、「出師の表を読んで泣かない者は忠誠のない者である。」と言われた程である。更に、「出師の表」は文学的にも評価され、諸葛亮は文学の歴史にも名を残す事になる。

 こうして始まった北伐(ホクバツ。北にある敵国を打倒する軍を起こす事)だが、最初は順調な滑り出しであった。連戦連勝を重ね、魏西端の涼州(リョウシュウ)は一気に蜀に靡いた。蜀は趙雲を陽動に使い魏の名将曹真(ソウシン)を引き寄せ、諸葛亮が本体を率いて涼州を攻めるという作戦に出た。この戦線を維持するために必要なのが街亭(ガイテイ)であり、街亭が奪われれば戦線の側面から敵に攻められ、打開する事になってしまう。この街亭の守備を任されたのが諸葛亮の愛弟子である馬謖(バショク)であった。

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清代の馬謖の絵画:WikipediaCommonsより引用

馬謖は兵法を熟知し、南方の異民族討伐の際に諸葛亮に対して助言をした事もある秀才である。諸葛亮は馬謖に対して、平地に陣を敷き道を封じるように命じた。しかし、馬謖はそれに背き山地に陣を敷いた。これに対し魏の名将張郃は山地布陣の弱点を見抜き、山の水源を絶った。これにより水が飲めなくなった馬謖軍は士気を失い、命からがら撤退、大損害を被った。当然、他の蜀の軍隊も喉元の街亭が取られたからには撤退せざるを得ず、第一次北伐は失敗に終わったのである。

諸葛亮は、敗軍の将でありこの北伐の戦犯である馬謖を処刑。馬謖は目を掛けていた人物であるだけに、諸葛亮は涙を流した。これが「泣いて馬謖を斬る」という故事の元である。馬謖を用いざる得なかった点も蜀の人材不足を表しているとも言え、この辺りから蜀は人材配置による損失が多くなってしまう。

最後の北伐!志叶わず没する

諸葛亮と司馬懿の対決の様子

諸葛亮司馬懿の対決の様子:WikipediaCommonsより引用
司馬懿に対し諸葛亮が高度な陣形である八門金鎖の陣を使用して対抗している。三国志演義での場面。

 諸葛亮は第一次北伐の後も魏への侵攻を辞めなかった。北伐は5回まで続き、諸葛亮は宿敵司馬懿と何度も対峙する。蜀軍は毎度ごとくの兵糧に輸送に足元を救われた。蜀の前線基地である漢中一体は山岳地帯であり、輸送に大変な時間と労力が掛かる。そのため、食糧が滞りがちであり、一度滞れば撤退せざる得ない。第二次北伐の輸送担当だった李厳(リゲン)は輸送が滞った責任を逃れるために諸葛亮に罪を着せようとしたが、失敗し失脚している。これは、蜀にとって輸送の問題が重大な事であった事を如実に著していると言えるだろう。

兎にも角にも、諸葛亮は自分の死期を悟っていた。次は失敗できないと悟ったのだろう。ほぼ一年周期で行われていた北伐だが、国力回復のために3年の期間を経て、5度目の遠征に出発した。

宿敵司馬懿は年々諸葛亮の戦略を理解し、兵糧切れという弱点を突くために長期戦を行うようになった。諸葛亮の挑発に乗らず、陣中でひたすら耐え忍ぶのである。その対策のために諸葛亮は自軍の陣営内で屯田を行い、長期戦に耐えうる環境を整えた。

しかし、肝心の魏軍が挑発に乗ってくれなくてはどうしようもない。諸葛亮はあの手この手で挑発を続けるが、司馬懿は一向に陣営から出ようとしない。魏軍の中でも挑発に堪え兼ねる声が燻っていたが、司馬懿は皇帝曹叡(ソウエイ。曹操の孫)の勅令を賜り、皇帝の威厳を借りてなんとか抑えた。

やがて、心労が溜まりにたまった諸葛亮は床に伏せるようになり、病状が悪化する。司馬懿も蜀の使者からこれを知り、病状とその激務を聞いた上で「もう長くはあるまい。」と語った。予言通り諸葛亮は五丈原で亡くなる。享年54歳だった。

諸葛亮への評価

成都にある諸葛亮のほこら(武侯祠)

成都にある諸葛亮のほこら(武侯祠):WikipediaCommonsより引用

 諸葛亮は軍事・政治両面で高く評価されている。特に政治家としての諸葛亮は高く評価されており、厳しいものの公正な法制度を造り上げる事で秩序を守った。戦乱の時代では略奪などは日常茶飯事だが、諸葛亮の軍勢は秩序が厳格に保たれていたため、民衆は安心したという。

死後、死者を祀る施設である(ビョウ)を建設する声が各地から相次いだが、諸葛亮が薄葬を命じたため蜀はこれを禁じた。しかし、勝手に諸葛亮を祀る民衆や異民族があとを絶たなかった。これは戦い続きの蜀を安定させるため、諸葛亮が蜀の民衆の心を上手く掴んでいた事を表している。

一方で将軍や軍師としての諸葛亮は評価が分かれている。後年の宿敵司馬懿は諸葛亮が去った後の陣営の様相をみて「天下の奇才である。」と称している。しかし、正史「三国志」の著者である陳寿は臨機応変な軍隊運用が苦手だったとしている。

少なくとも、神のような軍才ではなかったものの、5度の北伐を指揮しながら、国内を纏め上げた手腕は大したものだろう。何より、溢れんばかりの才能を持ちながら、弱小だった蜀の臣下となり、亡き劉備のために最後まで身を粉にしたその忠義には、2000年の時を越えた我々の心さえ打つものがある。

引用・参考文献

・WikipediaCommons
https://commons.wikimedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
・諸葛孔明 影の旋律
 ・早わかり三国志  面白い程よく分かる三国志

【リンカーン】奴隷制度と戦った南北戦争の英雄〜数々の名言を残した大統領の出生から暗殺まで 〜

リンカーン

エイブラハム=リンカーン :pixabayより引用
名前 エイブラハム=リンカーン

生没年 1809~1865

性別 

出生地 アメリカ合衆国 ケンタッキー州

死没地 ワシントンDC

地位、称号、階級 アメリカ合衆国第16代大統領

親族 メアリー=トッド=リンカーン (配偶者)

    ロバート=トッド=リンカーン (息子)

同時代に活躍した人物 勝海舟(武士、政治家)

           土方歳三(新撰組)

           徳川慶喜(江戸幕府第15第征夷大将軍)

           明治天皇

           ルイ=ナポレオンナポレオン=ボナパルトの甥)

           ペリー(アメリカ海軍軍人)

アメリカ合衆国がイギリスからの独立を果たし国内情勢も安定すると、18世紀には経済も発展した。同時に、北部と南部の利害の不一致からアメリカ内部の対立が徐々に深まり、アメリカ史上唯一の内戦である南北戦争の勃発にまで発展した。

黒人奴隷を酷使していた南部の当時の状況に正面から反発し、南北戦争では北部連邦派の代表として戦い、見事勝利へ導き、現在では世界のリーダーの一つであるアメリカ合衆国の存続に大きく貢献したエイブラハム=リンカーン

ケンタッキー州に生まれ、様々な職に就き、政治家、弁護士として幅広く活躍し、南北戦争や奴隷解放宣言など、世界史に多大な影響を与えた合衆国大統領の生涯を振り返る。

パラメーター

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政治力 4

 リンカーンの政治家としての政策の中で最も有名なのは、奴隷制度に対するものである。州議会議員時代、彼は奴隷制度に反対しながらも、奴隷制度即時廃止論にも反対していた。州によって相違があることを認めていたのである。その後、カンザス=ネブラスカ法の成立によって奴隷制度反対派のリーダーとなるわけであるが、その際には共和党の意見をまとめあげ、死後、合衆国の修正憲法に「奴隷制の廃止」という文言を挿入させることに成功している。

人望 5

 建国以来、国王制を採用していないアメリカ合衆国にとって大統領とは、いわば国家元首である。リンカーンは親族が政治家であったわけではなく、彼自身も若い頃は様々な仕事を転々としながら独学で弁護士資格を取得し、さらに政治家として大統領まで登りつめた。彼の人望に満点をつけることに異論はないだろう。

指導力 4

 アメリカ合衆国大統領は、軍部の最高責任者もかねている。その最高責任者として南北戦争に勝利した。この戦争の勝利は、奴隷制度の廃止という道徳的、倫理的な観点から評価されているのはもちろんであるが、今日世界に大きな影響を与えているアメリカ合衆国の存続を守ったという点でも評価されている。

知力 4

 大統領選挙の共和党推薦候補に選ばれる際、対立候補の主張の矛盾を巧みに突いて見事勝利した。リンカーンの頭の回転の速さを象徴する瞬間であった。また、大統領になる前に彼は独学で法律の勉強をし、イリノイ州で弁護士資格を取得した。

演説 5

 リンカーンと聞いて真っ先に「of the people, by the people, for the people」というワードを思い浮かべる人もいるだろう。これはゲティスバーグ演説の一部であるが、彼の言葉は自軍を鼓舞し、人々のモチベーションになっただけでなく、敵軍内部の不満をもつ人々までをも魅了した。エイブラハム=リンカーンの言葉は、それほど大きな力を持っていたのである。

政界へ進出するまで 

 1809年2月12日、トーマスとナンシーのリンカーン夫妻の間に男の子が誕生した。彼は、エイブラハムと名付けられた。後にアメリカ合衆国大統領となったエイブラハム=リンカーンである。ケンタッキーの田舎で生まれ、家族とともにインディアナへ、そしてイリノイへ移り住んだ。

大人になった彼は独り立ちし、店員や粉屋の作業員、郵便局長を勤めながらもホイッグ党員としての政治活動を行った。1832年のイリノイ州議会選挙には敗れたが、2年後の1834年の選挙で当選し連続4期議員を勤めた。同時に彼は独学で法律の勉強をはじめ、1836年にイリノイ州で弁護士資格を取得した。翌年スプリングフィールドで弁護士事務所を開業し、弁護士としても活躍をした。一方、1830年代はアメリカ南北の溝が次第に深まっていった時期であったが、当時、奴隷制についてリンカーンは公的な発言はしていなかった。

北部自由州vs南部奴隷州

 アメリカがイギリスから独立して以降、工業で発達した北部自由州に対して、南部奴隷州は奴隷を酷使して大農園を展開していた。徐々に深まっていく両者の溝は、1850年代には妥協点のないところまでに達していた。その発端は、1840年代に獲得した西方の新しい領土に対して、奴隷制の拡大を認めるか阻止するかを巡る論争であった。

1820年のミズーリ協定によって、ミズーリ準州(1803年にフランスから購入したルイジアナの一部)を奴隷州として州に昇格させる代わりに、以後北緯36度30分以北のルイジアナ地域については奴隷州を作らないと定められていた。1840年代末の時点では、自由州15:奴隷州15と均衡を保っていたのだが、カリフォルニアが自由州としての連邦への加盟を望んだためにバランスが崩れた。

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戦争のイメージ画像:pixabayより引用

 リンカーンは南部の奴隷制については容認していたが、その動きが北部の自由州にまで及ぶことには反対していた。南部諸州の奴隷制を認めたのは、奴隷即時廃止を訴えれば混乱を招くと考えていたからである。

1854年に成立したカンザス=ネブラスカ法により、南北の対立はさらに激化することとなった。この法律は、ミズーリ協定を否定し、新たに連邦に加わる州が自ら自由州か奴隷州か選択できるとする者である。ほぼ同時期に、最高裁判所がミズーリ協定を違憲とし、自由州でも奴隷の所有を認めたドレッド=スコット判決を下した。これらは、黒人奴隷制拡大を支持する南部の大農園主を支持基盤とする民主党のブギャナン大統領の下で下された者である。

一方、奴隷制度に反対していた自由州の政治家たちは、この動きに対抗するために共和党を結成した。当初奴隷即時廃止論にはあまり肯定的でなかったリンカーンも共和党に加わった。彼は、カンザス=ネブラスカ法の成立で目が覚めたと語っている。以後、彼は西部諸州での奴隷制禁止を訴えるスピーチを6年間で175回行った。

1859年、奴隷解放は武力によってしか達成できないと確信した奴隷制即時廃止論者(アボリジョニスト)のジョン=ブラウンが、20名ほどの仲間とともにヴァージニア州(奴隷州)の、連邦が管理する武器庫を襲撃し一時占拠した。この蜂起はすぐに鎮圧されたが、北部では彼を讃える声も上がり、南部は奴隷反乱を恐れていたためにますます態度を硬化させていった。

このような緊迫した状況下で、1860年、アメリカ合衆国大統領選挙が行われたのである。

大統領誕生と南北分離

北部自由州と南部奴隷州の分布

北部自由州と南部奴隷州の分布:Wikipediaより引用
青が北部(アメリカ合衆国)諸州、赤が南部(アメリカ連合国)諸州。水色は合衆国に留まった奴隷州。(Wikipediaより引用)

リンカーン当選の場合には連邦を離脱すると公言していた南部諸州は、次々と合衆国を離脱していった。サウスカロライナミシシッピフロリダアラバマジョージアルイジアナテキサスが合衆国を離脱し、アメリカ連合国を結成した。大統領にはジェファソン=デヴィスが選出された。南北戦争勃発後にはアメリカ連合国の構成州は11にのぼっていた。(ヴァージニアアーカンソーテネシーノースカロライナが加盟)

リンカーンの当選から就任式までの4ヶ月、ブギャナン政権は分離への動きを阻止することはできなかった。南部諸州の離脱を避難したものの、当時彼の信用はほとんどなく、その発言も効力がないに等しかったのだ。

アメリカ史上唯一の内戦

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リンカーン大統領就任式:Wikimedia Commonsより引用

 

 1861年、南部諸州がほとんどアメリカ連合国に加盟する中、サウスカロライナ州(アメリカ連合国加盟州)のサムター要塞の司令官ロバート=アンダーソンはアメリカ合衆国に忠誠を誓うと宣言した。敵地にありながら忠誠を誓ったサムター要塞の部隊に対して、リンカーンは、サウスカロライナ州知事に食料と水を補給する旨を告知した。州知事はそれを南軍(アメリカ連合国)の指揮官に報告した。南軍の判断は「サムター要塞の即時引き渡しに北軍が応じなければ、制圧せよ」というものであった。北軍は引き渡しを拒み、南北戦争が開戦した。

戦争初期、両軍ともに戦争の準備は全く万全ではなかった。特に、南軍は新しく作った国の政府機能を1から創設しなければならなかったた、すでに政府機能が確立していた北軍の方が優位であった。また、北部は中央集権体制をとっていたのに対し、南部はそれぞれの州権が強く、加盟州の意見をまとめるのにジェファソン=デヴィス大統領は苦戦していた。加えて、北部の方が人口が多く、鉄道も発達していたために物資の補給も比較的容易であった。一方で優秀な軍の幹部が多く合衆国を離脱し南軍に加わったことは、南軍のアドバンテージであった。

1861年5月、南部同盟政府は、首都をアラバマ州モンゴメリーからヴァージニア州リッチモンドに移した。鉄道路線の交通度が高かったことや、北部よりの地域の防衛に力を入れることで、連合国全体にヴァージニアの重要性を訴えることが目的であったと考えられる。南北戦争の主戦場は北部の首都ワシントンから、南部の首都リッチモンドを隔てるおよそ100マイル(160km)であった。

南北戦争の大半は、両軍が向き合っての待機合戦であったとされている。そんな中、最初の主要な戦闘が起きたのは1861年7月のことである。北軍37,000人が、南軍35,000に攻め込んだ。南軍が押し返し、北軍は退却を余儀なくされたのだが、戦闘慣れしていない兵士の中にはパニックに陥り南軍へ突っ込んでいく者もいた。彼らは、この戦争が早期決着に終わると考えており、ワシントンから戦争の光景を眺めようと気楽な気持ちで参加していた。

リンカーンの目指す民主主義を守ったアメリカ合衆国

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戦う戦士のイメージ画像:pixabayより引用

 次の大きな戦いとなった半島開戦では、北軍が南軍の首都リッチモンドまで後一歩のところまで肉薄した。マクレラン率いる北軍が南部への上陸作戦を実施した。軍編成において素晴らしい裁量を発揮したマクレランであったが、自軍が優勢であったのにも関わらず小勢であると思い込み、軍を極めて慎重に進軍させた。その様子に苛立ったリンカーンは、マクレランに攻撃を要請したが、彼はそれでも牛歩的な戦術を曲げなかった。

一方、デヴィス大統領にヴァージニアでの南軍野戦指揮官に任命されたロバート=E=リーは、マクレランが敵勢力を過剰評価しがちなことを認識しており、南軍が先に攻撃を仕掛けた。北軍の将軍の中には、リー率いる南軍にはわずかな手数しか残っていないと言う者もいたが、マクレランはリスクを恐れて退却を命じた。リッチモンドまであと6マイルのところまで迫っていた。また、この戦いは「7日間戦闘」とも呼ばれた。

南北戦争での最大の戦いと言われているのが、ゲティスバーグの戦いである。南軍は、北部地域を戦場に巻き込み、講和に持ち込むことを狙っていた。南北戦争のクライマックスとなったこの戦いは、1863年7月1日からの3日間で決着がついた。南軍のある部隊が、軽武装の民兵だと勘違いして北軍の部隊に攻め行ったことで始まった。民兵だと勘違いした部隊は、たまたま下馬していただけで実はライフルで武装した北軍の騎兵隊だったのだ。この出会い頭の偶然の戦闘が、一瞬にして多くの部隊を巻き込む決戦となり、南軍のリー将軍自身も主要な戦闘に引きずり込まれたのであった。3日間、南軍は大きな犠牲を出しながらも北軍を崩すことはできず、本拠地の南へと後退して行った。

この戦いで勝利した北軍の士気は著しく高まり、一方で南軍の士気は間違いなく低下して行った。北部はゲティスバーグの戦い以降、経済が上向きとなり、鉄砲、弾薬、軍服などの軍需品も大量に生産していった。

1864年、グラントがリンカーンに任命され北軍の指揮官に就くと、会戦で負けていても完全撤退せずに敵地に残ってそのまま粘り続けるというこれまでの将軍とは異なる戦法をとった。アメリカ西部での戦いについては、グラント将軍から引き継いだウィリアム=シャーマンがその有能ぶりを発揮し、アトランタ方面作戦で次々と南軍を破っていった。

軍の士気も下がり、連戦で大きなダメージを負った南軍は再び盛り返すことなく1865年4月3日、ついにリッチモンドが陥落した。9日にはリー将軍が降伏して戦争は事実上終結し、5月26日、最後の南軍の部隊が降伏して南北戦争は終わりを告げた。

アメリカ合衆国の再統合

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戦地となったゲティスバーグの画像:pixabayより引用

 戦後、勝利した北軍の、南軍に対する報復行動はほとんどなかった。南部同盟の指導者らは、一人として銃殺刑や国外追放になることがなかっただけでなく、その多くが戦前の経歴を回復した。アメリカ連合国の大統領であったジェファソン=デヴィスは、収監こそされたものの2年後の1867年の5月には釈放された。資産が没収されることもなかった。

このような寛容な条件での講和がすすんだのは、リンカーン大統領がそれを望んだからである。南部同盟に加わった者たちについても、アメリカ合衆国への忠誠を誓えば恩赦を認めた。

激しい内戦後、様々な混乱がありながらも驚異的な立ち直りをみせ、アメリカ合衆国はすぐに始まる帝国主義時代とやがて始まる二つの大きな戦争を経て、世界のリーダーとしての階段を上ってゆくこととなる。

 

奴隷解放宣言

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イメージ画像:pixabayより引用  

 アメリカ南部にはおよそ400万人の黒人奴隷が住んでいた。彼らにとって、南北戦争は、「自由」を手にするための戦いになるはずであった。北部に住む黒人はすぐに募兵となったが、南軍は当初、黒人を入隊させなかった。

1863年1月1日、リンカーンは奴隷解放宣言を発布した。合衆国に反乱する地域の奴隷は即時無償解放されることや、黒人奴隷が逃げ出して北軍に加わった場合、すぐに自由を与えるという内容であった。南部諸州の合衆国離脱の阻止が当初の戦争の目的だったが、この宣言以降、奴隷解放が戦争の目的であると見なされるようになった。

南部の奴隷たちは、主人の命令に背いたり、仕事の妨害をしたり、脱走したりと、南部の経済を混乱させ、北軍の勝利に貢献した。

1865年12月に批准、成立した憲法修正第13条により、奴隷制度の廃止が定められた。イギリス人によるアメリカ入植以来続いた奴隷制度は全土で禁止されることとなった。

初めて暗殺された大統領

石像

リンカーン記念館の石像:pixabayより引用

  1865年4月14日の夕方、リンカーン大統領夫妻は劇場で観劇していた。22時過ぎ、27歳の俳優ジョン=ウィルクス=ブースは、数人の護衛しかついていなかったボックス席のリンカーンを狙撃した。護衛が持ち場を離れた瞬間だった。銃撃後、「暴君は常にこうなる。南部の仇は撃ったぞ。」と叫んだという。

瀕死のリンカーンは、向かいの下宿屋に運び込まれた。彼の意識は戻ることのないまま、憲法修正第13条の成立を見届けることなく、翌朝絶命した。後に判明した事実によると、リンカーン大統領の暗殺は、数名のアメリカ合衆国の指導者皆殺しにする計画の一環であったと言われている。グラント将軍ジョンソン副大統領にも尾行がつけられた。

アメリカ大統領が任期中に暗殺されるのは史上初めてであった。混乱の中、当時の副大統領であったジョンソンが新大統領に就任し、リンカーンの推し進めてきた政策を引き継ぐこととなった。

望まぬ形で最期を迎えてしまったエイブラハム=リンカーン。現在、石像となった彼はワシントンDCで私たちを見守っている。

リンカーン記念館

リンカーン記念館:pixabayより引用
引用・参考文献

・コトバンク「ミズーリ協定」

https://kotobank.jp/word/ミズーリ協定-872073

・世界史の窓「アメリカ連合国」

https://www.y-history.net/appendix/wh1203-048.html

・ビジュアルヒストリーアメリカ アレン・ワインスタイン、デイヴィット・ルーベル著、越智道雄訳 東洋書林
  ・アメリカ黒人の歴史 パップ・ンディアイ著、明石紀雄監修、遠藤ゆかり訳 創元社   ・アメリカの歴史を知るための63章 富田虎男 鵜月裕典 佐藤円 明石書店